2009年 07月 10日
じゆうさん@新江古田
久しぶりに江古田の「じゆうさん」へ。 手挽きの田舎そば。 はっきりいって、頻繁に訪れてもいないのに比べるのもおかしな話なのだが、それまで何回か食べた蕎麦より若干水っぽい印象を受けた。
だからどうした、ってことだ。 そもそも僕は蕎麦の旨い不味いがよくわかっていない。 どういった蕎麦がいわゆる美味いといわれるものなのか。 そんな定義なんてものは関係なしに自分が美味いと思ったものを美味いと思えばいい、だけの話だ。だけど、それを実行するのはかなり難しい。 蕎麦に関しては、はっきりいって難しいといっていいと思う。 例えば、この「じゆうさん」の汁は、素直に美味しいといえる。 そしてそれをどろっとした蕎麦湯でわって飲み干す快感は、蕎麦というジャンルのみが持つ至福の瞬間だ。 だが、蕎麦を啜る時の瞬間は、なにものにも代え難い一時なのか、というと僕はさほどその瞬間に感動を覚えない。 確かに、旨そうなオーラは感じることができる。そして実際、清冽な印象。 だけど、なにかひっかかる。これで納得してしまってもいいのか。自分に旨いといい聞かせているだけじゃないか、と。
以前、同じような考えだったのが、ワイン。 だけど、一度その世界に入ると、その振幅の大きさに驚くほどその世界は広かった。 広すぎて、僕はもう手前で引き返してきた(はっきりいって金がついてこない)。 残念ながら蕎麦にはその振幅を感じることができない。 そうとうにストイックな世界なのだろうか。 もっと深くダイブしてみれば少しはわかるのだろうか。
なんでも、プロに聞くのが一番